VOL .30

ここに住みたい

「私もこの家に住みたい」

 3年ぶりにパソコンのディスプレイ越しでなく再会したグレイスは、うちに来るなりそう言った。彼女は私の大学時代のイタリア人の友達で、今は母国で翻訳の仕事をしている。

「私達、まだまだ新婚なんだけど」

 私も一瞬、一緒に住めたら楽しいだろうななんて考えてしまったけれど、それは口に出さなかった。

「日本家屋、最高! 二階建ての一戸建てなんだから、私一人いても邪魔にならないよ」

 そう言ってグレイスは、我が家の和室で大の字になった。それを見て、フッと笑みがこみ上げる。前も、私の実家でこんな風に寝そべってたっけ。

「あれは、何?」

 そして、懐かしい彼女の癖が始まった。目に入った自分の知らないものや気になったものを、全てこうやって聞いてくるのだ。確かに、ここはグレイスにとっては外国だから珍しいものも多いのかもしれないけれど、大学時代ずっと日本にいたんだからそんなに目新しいものはないはずなのにな。

「これは?」

「あぁ、それはお隣さんからもらった洗剤。かわいいでしょ。手袋専用なんだって」

「手袋専用の洗剤なんてあるんだ!?」

「お隣の娘さんが、手袋職人の見習いとして働いてるみたいでね、近くなんだけど、明日にでも見学に行ってみる?」

「行きたーい!」

 何だかホッとした。グレイスとはしょっちゅうオンラインでおしゃべりしていたけれど、面と向かって会って話すのは久しぶりだから、何かが変わってしまっていたらどうしようかと思ってた。でも、学生の頃に戻ったようにちゃんと話せてる。

 と、その時、玄関から夫の声がした。

「買い出し行ってきたよ。そろそろ行こう!」

 今から私達は、とらまる公園までお花見に行くんだ。グレイスは桜が見たいから日本に来ることにしたとか言ってたけど、夫の転勤で知らない街に越してきたばかりの私を元気づけるためだったんじゃないかと私は自惚れている。ま、こんなこと聞いても「ちがいまーす」とか言ってはぐらかされるんだろうけどね。

「日本の桜、やっぱりきれい」

「うん、きれいだね」

 グレイスと私は、夫が広げてくれたビッグサイズのレジャーシートの上に寝転がった。大の字になるのは難しかったから、小の字だけど。

「東かがわ市って私が好きな日本の田舎町って感じだし、ここに住みたいなぁ」

「あれ、グレイスって都会が好きじゃなかったっけ?」

「いろいろ旅行したけど、都会は世界中どこも同じような感じだからね。でも、ここには優花がいるし、桜もきれいだし、何だかゆっくり時間が流れてて、気持ちいい」

 桜の木から、花びらが音もなく舞い落ちた。こうは言ってもグレイスが移住してくるのはなかなか難しいだろう。イタリアに帰ってしまえば次に会えるのはいつになるかわからない。

 また一枚、風に花びらが枝から離れる。今、大好きな夫と親友の間で美しい桜を見上げ、とてつもない幸せの真ん中にいるというのに、心のどこかがなぜかザワザワする。

「毎年は無理だろうけど、また日本に来るなら春に来たいな」

 そっと隣に顔を向けると、グレイスもその青い目をこっちに向けた。

「うん、ここで待ってるよ」

 桜は散るけれど、春は毎年やってくる。それを信じて、前向きにならなきゃ。

まだグレイスがこっちに来て一日目だというのに、どうしてこんなに感傷的になってしまうんだろう。親友と見る桜のせいってことに、しておこう。

「佩」とは

佩(ハク)とは、江本手袋が「喜び合える手袋づくり」を目指して取り組む手袋ブランドです。

職人を守り育て、地域の手袋づくり文化を未来へと受け継いでいくために、扱う素材、デザインの考え方、色展開、つくる量、手袋職人の社会的地位、そして地域との関係性など、これまでの手袋づくりの全てを見直しました。

江本手袋に勤める65歳の職人は、中学卒業からずっと手袋を作り続けています。

佩は、このような本物の職人たちの手仕事をお届けします。

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