ハッピーバースデー
真夏のある日曜日。
「私でよかったら」
私、高野麻衣の発言に一番驚いたのは、目の前のレストランのマネージャーでも周りのスタッフでもなく、自分自身だった。ピアノ演奏者が事故に遭ったとかで、来られなくなったのだ。
「実は、芸大出身で……」
まばたきを何回もしながらも、マネージャーの口角が上がっていく。
ほんとは、真面目にプロを……ピアノ一本で食べていけるくらいになりたいと思って頑張っていた時期もあるとか、いくつかは入賞経験もあるとか、話したいことはたくさんあったけれど、そんな勇気も時間もなかった。
「うわぁ、助かります。それじゃあ、お願いしてもいいですか? 楽譜はこれとこれなんですけど、初見でもいけますか?」
芸大のピアノ専攻だったというだけで、こうも信頼してもらえるとは。
楽譜は、スティービー・ワンダーの「ハッピーバースデー」と、娘も大好きなピノキオの「星に願いを」だった。
「はい、大丈夫です」
「よかった。ほんとにありがとうございます」
マネージャーはそう言って、私はまだ一音もひいていないのに頭を深々と下げた。
このレストランは、勤務する会社が内装を任されている店で、私は企画段階から携わってきた。今回はリニューアルして初めてのウェディングパーティーがあるとかで、休日出勤してまで見に来たのだ。
ピアノは、最近まで長くひいていなかった。仕事や子育てが忙しかったということもあるけれど、他のことに熱中することでピアノを意識しないようにしてきた気がする。
結局、練習時間は10分もなかった。けれど、出番までの待ち時間はわりと長く、控室のエアコンで冷え切った私はお気に入りのレッグウォーマーをつけた。これは、会社で使っているもので、座り仕事の必需品だ。
姿見の前に立つと、紺のパンツスーツの足元から、さりげなくレッグウォーマーがのぞいていた。目が覚めるような青色は、いつも私に元気をくれる。
「高野さん、そろそろ時間です」
「今、行きます」
人前でひくのは、家族以外で何年ぶりだろう。ドキドキするのに、グランドピアノに近付くにつれそんなこと気にならなくなった。
パーティーは大成功に終わった。
今日は新婦の誕生日でもあるらしく、私のピアノは新郎が考えたサプライズの演出だったそうだ。サビのパートで、新郎とそのお友達が一斉に立ち上がり、歌い踊り始めた時にはその迫力にびっくりして、会場の隅にいるマネージャーを見てしまったけれど、彼も知らなかったようで口をポカンと開けていた。
「ピアノ、最高でした! ありがとうございました!」
お客様が帰った後、新郎新婦がそろって会いにきてくれた。
「いえ、こちらこそ」
そう言えば、ピアノをひいてお礼を言われたこと、今までほとんどなかったかもしれない。
自分のためじゃなく、誰かのためのピアノ。また始めてよかった。
2曲しかひいていないはずなのに体も心もポカポカで、私はレッグウォーマーをぬぎ、真夏の夕暮れに飛び出した。そうだ、今日は娘と夫の大好きなプリンでも買って帰ろう。