風を感じる
「麻のハンドソックスって、夏にぴったりよね」
手袋職人の師匠である藍子さんが手にしているのは、できあがったばかりのハンドソックス。直接触りたくないものがある時に、サッと伸ばすと指先を覆うことができるアームカバーだ。
「いくら麻でも、何もつけない方が涼しいんじゃないですか?」
私の言葉に、藍子さんは小さく笑った。
「藍子さん、どうして笑うんですか」
わざと頬を膨らませる私を見て、また藍子さんは微笑んだ。
「だってね、私も若い時に同じこと考えてたからよ」
工房の窓に目をやると、外は夏らしいまぶしい空が広がっていた。もうすっかりエアコンをつけなきゃ暑くて仕事にならないほどの季節だ。
「じゃ、いつ長袖の方が涼しいって思うようになったんですか?」
「うーん、いつだったかなぁ」
藍子さんはそう言って、またミシンに向かった。
それから数日後の夕方、仕事を終えた私は家までの道を歩いていた。
すっかり日が長くなっているので、定時上がりでもまだ太陽は夕日にはなっていなかった。今日はやけにギラギラして、このままじゃクリームブリュレみたいに肌が焦げてパリパリになるんじゃないかと思うくらいの日差しだった。
けれど、歩いているうちに少しずつ日は傾いていく。地球ってほんとに動いてるんだな。そして、あのお日様は遠いどこかの国の朝日になっているんだ。
あれ、さっきからクリームブリュレやら地球の自転やら、突拍子もないことばかり頭によぎるのはなぜだろう。そうか、暑いからだ。だから、いつもなら考えないようなことが浮かんでくるんだ。
「そうだ」
藍子さんの言葉を思い出し、私はハンドソックスをかばんから取り出した。
「やっぱり、何もつけない方が涼しいと思うけどなぁ」
とかつぶやきながらも、腕を通す。
やっぱり、いくら麻だからって、暑い……。
そう思った瞬間だった。風を感じた。突風が吹いてきたわけでも何でもないのに、ハンドソックスの隙間から入ってきたわずかな風が、腕の産毛をサラッとなでたのだ。
「えっ?」
思わず腕組みするようにハンドソックスに触れる。さっきまでの日差しで焼き付くような感覚も、もうない。
「藍子さんが言ったとおりだ……」
それから私は、首をかしげながら家路についた。
「おかえり。そんなに不思議そうな顔して、どうしたの?」
お母さんはそう言って私の顔を覗き込む。わけを話すと、お母さんもクスリと笑った。
「お母さんまで、なんで笑うの?」
「私も、海香子と同じように考えたことあったからね」
「お母さんも?」
「小さい時に苦手だったものが、大きくなってから好きになったりすることがあるでしょ。そんな風に、感じ方が変わることもあるのよ」
自分の部屋に行き、ハンドソックスをそっとはずす。
感じ方が変わる、か。
「大人の感覚になったってことなのかな?」
ふと目を留めた姿見には、クリームブリュレを口に含んだ時のような、そんな笑顔の私がうつってた。