これからよろしく
「今日からお世話になります」
ある春の夕方、そっと開いたドアの前に満面の笑みで立っていたのは、早苗ちゃん。
「こちらこそ。何か困ったことがあったら何でも言ってね」
早苗ちゃんは、私が大家をしているこのマンションに、今日は引っ越してきたのだ。彼女とは、旅行で行った東かがわ市のうどん屋さんで、たまたま席が隣だったというご縁で知り合った。ちょうど彼女の進学先の大学が私のマンションの目と鼻の先にあったことから、私達はすぐに連絡先を交換し、今に至る。
「あの、これ」
早苗ちゃんは、引っ越しのご挨拶だと言って、出会ったうどん屋さんのうどんをくれた。
「ありがとう。それにしても、引っ越してくるの、ぎりぎりだったね」
確か、明日が入学式だとか言ってたっけ。
「あんなに地元を出たいって思ってたんですけどね。いざ離れるとなると何だか寂しくなっちゃって、バタバタしてたら今日になりました」
早苗ちゃんと会うのは、今日で二回目だ。でも、スマホで何度もやりとりをしていたからか、もう随分と前から知っている人のような気がした。
「また、東かがわ市に来てくださいね。他にもおいしいうどん屋さん、いっぱいあるんですよ」
いや、スマホのせいじゃないな。早苗ちゃんという人は、私とは年も随分と離れているけれど、誰とでも仲良くなれるような、そんな好ましい女の子なのだ。
「今から、お買い物?」
今日は4月にしては冷えるからか、早苗ちゃんはベージュのネックフォーマーをしている。たぶん、江本手袋さんのだ。色違いのを私も持ってるからわかるんだよね。
「はい、冷蔵庫が空っぽなので、いろいろ買おうと思います」
最近はご近所付き合いというものをしないと、前に友達が言っていた。他人と関わるのが億劫だということもあるだろうけれど、みんな忙しいんだと私は思う。仕事や趣味や考えるべきことが毎日わんさかあるんだから、そこにあえて近所付き合いする気になんてなれないのだろう。けれど、自分からは無理でも、ご近所さんから関わってきたら無関心ではいにくいものだ。私は私が大家であるうちは、この立ち位置を利用してほんの少しでも周りと関わっていきたいと思っているんだけれど……これはやっぱり越権行為だろうか。
「もしよかったら、これからいっしょに晩ごはん食べに行かない? 近くにおいしい中華のお店があるんだけど、どうかな?」
もちろん、相手が嫌そうならサッと引く反射神経も私は心得ているつもりだ。でも早苗ちゃんは、私の言葉に目をキラキラさせてくれた。
「いいんですか? この辺のこと、全然わからないので嬉しいです。それに、ちょうど中華って気分だったんです!」
ちょっと待っててと言って、私は家の奥に戻った。そして、コートを着て、グレーのネックフォーマーを……早苗ちゃんといっしょのだし、これを付けて隣を歩いたら、姉妹みたいに見えたりして……あ、それって彼女は嫌かな……でも、今日は寒いしな……。いろんな想いが頭に入ってきてグルグル回る。そして、近所付き合いだとかどうとかでなく、ただ単純に早苗ちゃんと仲良くなりたいんだということにようやく気が付いた。大人になると、なかなか新しい友達って作りにくい。だから、このチャンスはできれば活かしたい。
とりあえず私はかばんにネックフォーマーをそっと入れ、早苗ちゃんの待つ玄関に小走りで戻った。