引田ひなまつり
「隣に引っ越してきました、山中と申します」
昨日、東かがわ市にやってきた。初めての街ってのは、旅行だったらワクワクしかしないけれど、住むとなると話はちがう。
「まぁまぁ、わざわざ。どちらからいらっしゃったの?」
ドキドキしながらインターホンを押すと、笑いじわの美しい女性がエプロンをはずしながら出てきた。もう一度チラッと表札を見る。この方が、津田さん、か。
「大阪からです。あの、これ、ちょっとしたものですが……」
引っ越しの挨拶に適当なのは何なのかわからず、とりあえずお気に入りのタオルにしてみたけど、よかったかな。
まさか夫の耕司の転勤が、初めての結婚記念日を迎える前に決まるなんてなぁ。夫婦二人だけだから荷物はそんなに多くないけれど、それでも引っ越しってのは私には重労働だった。
でも、一番嬉しかったこともある。それは、私好みの一軒家の借家が見つかったこと。生まれてからマンション暮らししかしたことがなかった私の夢だったんだ。それに、海辺の遊歩道の近くってのもポイントが高い。
「今、お時間ある? もしよかったら、上がってってちょうだい」
そういう津田さんの笑顔につられ、私はうんともううんとも言っていないのに、気付いた時には中に入っていた。
「今、お茶淹れますね。あ、コーヒーの方がいいのかな」
奥のリビングに通されて、びっくりした。そこには立派な雛人形が飾られていて、それは季節的に普通のことだろうけれど、驚いたのはひな壇の横に大きな市松人形も並んでいたからだ。
「引田雛って聞いたことないかしら。この地域独特のものでね。他ではこんなの見たことないでしょう」
言われてみれば、お内裏様とお雛様が御殿に入っていて、私の実家にあったものとは迫力がちがう。圧倒された私は、しばらくポカンと口を開けたまま突っ立っていた。
「ほらほら、どうぞ座ってくださいね」
津田さんは、紅茶とコーヒーをどちらも一つずつ淹れて持ってきてくれた。さっき返事をしなかったからだろう。悪いことしたなと思いながらも、出会ったばかりの私によくしてくれたことがとても嬉しかった。
「このお雛様は、お嬢さんのですか?」
「そうなの。今年から就職することになってね。海香子っていうんだけど、まだ学校に行ってるから今度紹介させてくださいね」
それから、引田ひなまつりのことをいろいろと教わった。昔は母親の実家がこの豪華な雛人形を準備し、ご近所に披露するのが風習だったそうで、「引田には嫁にやるな」っていう言葉まであったそうだ。
「あの、今日は一人で来てしまいましたが、近いうちに夫もご挨拶に来ていいですか?」
津田さんは、大きくうなずいてくれた。
「夫にもこのお雛様、見てほしいなって……」
それに、引田雛を誇らしげに見つめる津田さんにも、会ってほしい。
「いつでも来てね」
私の東かがわ市生活は、こうして好スタートを切った。