楽しみを育てる
「えっ、いいなぁ」
久々にオンラインでしゃべった大学時代の友人は、席を外したかと思うと部屋の奥の方でごそごそし始め、一枚のポスターを大事そうに出してきた。
「あ、そのイラスト、見たことある。誰のだっけ?」
大きくキリっとした目が印象的な女性の絵。確か、昔の雑誌の表紙だ。レトロさも感じさせつつ、現代の私が見ても抜群のセンスだ。
「東かがわ市って、中原淳一先生が生まれた所でしょ?」
昨夜、夫に「転勤で引っ越すかもしれない」と突然言われたことを話したのだ。私は「香川県の東にある市なんだろうな」としか浮かばなかったのに、彼女はよく知っていたものだと思う。だって友人のグレイスは、イタリア在住のイタリア人なんだから。
「私、ファンなんだ。本も持ってるよ」
芸術に疎い私でも、中原淳一のイラストは見たことがあったし、名前も聞き覚えがあった。数々の雑誌やファッションの現場で活躍した、戦時中も女性に夢を与えつづけたカリスマ的画家だったはず。
東かがわ市と聞いて、ただの田舎町だと思い込んでいたのに、グレイスの一言で一気に視界が明るくなった。だって、生まれ育った土地を離れるのって、けっこう憂鬱なものなんだ。友達や家族とも気軽に会えなくなるし。でも、結婚したばかりなのにすぐに別居する気にはなれなかった。
「優花が東かがわ市にいるうちに、絶対に遊びに行くね」
グレイスはそう言って大きなあくびを手で隠した。それもそのはず。こっちは朝だけど、イタリアは真夜中なのだ。日本語の翻訳者として活動している彼女は夜型で、こうして話すのは決まって日本の朝だった。
「おはよう。今日は帰りに優花の好きなシュークリーム買ってくるから、機嫌直して」
夫は起きてくるなり、申し訳なさそうにパジャマ姿でこう言った。いつも食べ物で私のご機嫌を取ろうとするの、やめてほしいんだけどな。
「引っ越したら、休みの日の度にどこか連れてってね」
「何があるんだろう?」
「わかんないから、行ったら向こうの職場の人に聞いてみて」
「わかった。じゃ、行ってきます」
いつの間にか身支度を整えていた夫は、通勤かばんをつかんだ。
「帰りにシュークリーム、忘れないでね」
夫はフッと笑って、手をふりながら玄関を後にした。
さて、私も準備しなきゃ。
知らない街へ移り住むのはものすごく不安だけど、それよりも小さな楽しみを育てよう。心配するより、腹をくくって楽しむんだ。今日は仕事の昼休みに、観光情報でも調べてみようかな。