裏も表も
手袋の生地は、うすくてやわらかいものほど気を遣う。裁断機の刃に吸い込まれないようにするには、長年やってきてはいるが気を抜くわけにはいかない。
「幸一さん、一休みしませんか」
同じくベテラン手袋職人の藍子さんの声に、ハッとして顔を上げる。部屋のひんやりとした空気が、急に顔に貼り付くように戻ってきた。
「きりのいいところまできたら、行きます」
目や腰が痛い。ということは、そこを使っているということだ。何もしなければ、傷むこともないんだから。
工房を出ると、お客さんがちょうど来たところだった。暖かそうなベレー帽をかぶった、若い女性だった。何色もあるラインナップから、そっと手に取っては戻し、また他のを取っては悩んでいる。その様子を、私は藍子さんと共に部屋の奥からじっと眺めた。
「大事に使います」
やっと決まったようだ。ベレー帽と同じ水色の手袋を、そっと胸にあてている。
どんな苦労も、一瞬で吹き飛ばしてくれる魔法のようなものは、この世に笑顔しかないと私は考える。店を出ていくお客さんの表情は、おだやかでやさしく、職人の私にとっては何よりのご褒美になった。
「さっきのお客さん、ほんとに嬉しそうでしたね」
藍子さんにとっても、きっとそうなのだろう。
翌日、久しぶりに新聞の取材が入っていた。東京からわざわざ来てくれるらしい。
記者の方が来てびっくりした。なんと、昨日のお客さんだったのだ。手には、購入した水色の手袋をしている。
「昨日、お店では気付かなかったんですけど」
記者さんはそう言って手袋をはずした。
「この手袋、長い時間していても、全然違和感がないんですよ。裏まできれいで」
「手袋は、裏も表もきれいじゃないと」
私の横で、藍子さんはそう言って微笑んだ。
「手は第二の脳って言いますもんね。私もこの手袋みたいに、見えないところも細やかな人になりたいなぁ」
さすが新聞記者、うまいこと言うなと思った。
それから私達は工房に入り、使い込んだ機械を見せ、昔ながらの製法を説明した。
「こだわりが、つまっているんですね」
記者の女性は最後にそう言って、メモ帳をパタンと閉じた。私は、黙ってうなずいて見せた。
「また来ます」
笑顔の次に好きなのは、この言葉だ。
「またいつでもお越しください」
短い別れの約束にはならないけれど、これ以上に希望が持てる言葉はなかなかない。