物語が生まれる
「気楽でいいね」
と、友達は言う。 40代の独り身、親から譲り受けたマンションの家賃収入で生計を立てていればそう思われるのも仕方ないのかもしれない。
でも、実際は悠々自適なんてことはない。大家業は管理人とも言えるので、建物に不備があればすぐに対処しなければならないし、敷地内の掃除やメンテナンスは人に任せては出費がかさむので自分でやっている。
それに、私には叶えたい夢がある。作家になることだ。いくら生活に困らないと言っても、残りの人生をこのままずっと大家でいるのは嫌だ。というわけで、仕事の合間をぬって執筆し、こつこつと新人賞の公募に挑戦している。最終選考に残ったことは何回かあるけれど、結局は受賞しなければデビューはできない。何が気楽なものか。
こんな生活を始めて15年。かわりばえのない毎日を過ごす私のリフレッシュ方法は、小旅行だ。マンションの管理があるので長期では難しいけれど、近場なら、思い立ったらすぐに行ける。
最近のお気に入りは、香川県の東かがわ市。手袋の聖地と呼ばれるこの街は、うちから車で数時間だし、前にオーダーメイドで手袋を作ってもらってから、よく来るようになった。
「緑さん、いらっしゃい」
「よく来てくれましたね」
今日も私は江本手袋さんにやってきた。工房から、ベテランの手袋職人である藍子さんと幸一さんが顔を見せてくれた。こうやって、お気に入りの店の人に名前を覚えてもらえるのって、嬉しいことだ。
「今日はマフラーを見に来ました」
「ゆっくりしてってね」
藍子さんの笑顔は、心にたまったストレスをかきだしてくれるような気がする。
「今回は一泊するので、じっくり選ばせてもらいますね」
生活圏じゃない、でも居心地のいい空間。友達でも家族でもないけれど、東かがわ市で出会う人々は私にとってかけがえのない存在になっていた。
宿泊先の温泉からは、瀬戸内海が一望できた。夕暮れの海は静かで、私はその筋雲のような波がきらめくのを見守った。ふと、さっきまで聞いていた工房からのミシンの音が耳によみがえった。
胸の少し上が、ほんのり温かくなる。何かが生まれる、そんな予感。
そうだ、この地を舞台にした小説を書こう。大きな山があるような話じゃなくていい。おだやかで、その上を通る風といつも共にあるような、瀬戸内海の波のような物語。
「きっと、かなう」
これまでは、作家になることを目指していた。でも今日からは違う。いい小説を書くことが、私の夢なんだ。