ぴったりは傍に
芸術の世界は、厳しい。もっと努力すれば、もっと練習すれば才能が花開くかも。そう思ってやってきたピアノだけれど、私はやめてしまった。なので、近年付き合いがある人で私がピアノをしていたということを知っている人はいない。世間一般で私は、音楽とは無縁の会社でフルタイムで働く4歳児の母親ってだけだ。それが、気楽なような寂しいような、そんな感情に時々押しつぶされそうになる。
「ママ、結衣もピアノが習いたい」
お友達の家でピアノを触らせてもらったらしい。ピアノに興味を持ったのは、やっぱり私の娘だからかな。そういや、私も結衣の年の頃から始めたんだっけ。
結婚する時、実家からピアノを持ってくるか一瞬迷ったけれど、結局新居には運ばなかった。ピアノが嫌いになったわけじゃなかったんだけど。
夜、夫に相談した。夫は私がピアノをあきらめたことを知っている。
「大丈夫?」
またピアノと関わるということに、と言いたいのだろうか。大丈夫、と返事をしたいのに、私の口からは長いため息しか出なかった。
「もうすぐ結婚記念日だろ。手袋をオーダーメイドしようと思うんだけど、どう?」
いきなり話が変わったと思ったら、夫はスマホで手袋屋のサイトを見せてきた。指の長さを1センチ単位で調節できたりするらしいし、色も豊富だ。
「麻衣、ずっとピアノをやってきただけあって指が長いだろ。ぴったりなの、持ってないんじゃないかと思って」
私の手指は、確かに人より長い。ピアノに適した指だと自分でも思う。才能とか努力とか、いろんなものが足りなかっただけで。
「ピアノをしてようがしてなかろうが、僕は麻衣の手、きれいだと思うよ」
改めて自分の指を眺める。毎日洗い物をしているのに、ほとんど荒れていない。そういや、ハンドクリームをつけたり、もうピアノはひかないのに無意識にケアをつづけていた。
「ぴったりな手袋、ほしい」
私のつぶやきに、夫は横で大きくうなずいた。
「ママ、どうしたの? 泣いてるの?」
寝たはずの結衣が、目をこすりながら起きてきた。
「ううん。大丈夫よ」
私の大きな手は、娘の小さな顔をすっぽり包む。
ピアノでの成功は、手に入れられなかった。でも、つづけていたら得られなかった幸せが、今ここにある。私には、私ぴったりのものを、これからも探せる。
「結衣、パパがピアノ習ってもいいって」
「ほんと? やったー!」
すっかり目が冴えてしまった結衣をつれて、寝室へ向かう。明日は休みだから、私がピアノをひいていたこと、娘に聞いてもらってもいいかな。